Masuk
四月――満開の桜が風に舞い、新たな始まりを告げる季節。
|赤星猛《あかぼし たける》は、ごくりと喉を鳴らし、目の前にそびえ立つ壮麗な門を見上げていた。門柱に刻まれた文字は『|不知火《しらぬい》探偵学園』。全国から選び抜かれた探偵の卵たちが集う、国内最高峰の養成機関である。 彼は、ここが自分のスタートラインだと直感していたが、その胸中には期待と、それ以上の不安がないまぜになっていた。 猛は運動神経に絶対の自信を持つ。体力測定や実技試験はトップクラスの成績だった。だがペーパーテストは壊滅的で、補欠合格という綱渡りの末に、この門の内側へ足を踏み入れようとしている。 周囲には、いかにも頭脳明晰といった風情の少年少女が、洗練された制服に身を包み、当然のような表情で行き交っていた。場違い感は、彼一人の錯覚ではない――少なくとも猛はそう受け止めていた。 「おい、邪魔だぞ、そこの赤毛」 不意に背後から声が飛ぶ。猛が弾かれたように振り返ると、銀縁眼鏡の奥から冷たい視線を向ける、線の細い男子生徒が立っている。寸分の乱れもない制服の着こなしは、少し着崩した猛のそれと鮮やかな対照を成していた。 彼――|神楽坂雅《かぐらざか みやび》は、目の前の新入生を障害物程度にしか認識していない。彼にとって列の滞りは、最初の印象管理を損なう瑕疵にすぎなかった。 「あ、ああ、悪い」 猛が慌てて道を開けると、神楽坂は鼻で笑うようにわずかに口角を動かし、その横を通り過ぎる。取り巻きらしき数人が間を置かず後に続いた。 彼らは、まだ入学式すら終えていないにもかかわらず、すでに自分たちの立ち位置を疑っていない。 感じの悪さに猛は小さく悪態を飲み込み、すぐに気を引き締め直す。学力で劣るなら、他で補えばいい――そう彼は考えていた。 運動神経への揺るぎない自負、そして『人を守りたい』という衝動。それらがあればやっていける、と彼は自らを鼓舞する。彼の胸の内に宿る意地は、今この瞬間、誰にも気づかれていない。 「やってやるぞ……!」 拳を握りしめ、猛は決意を新たに、桜吹雪が舞う門をくぐった。彼が知らぬまに、同じ門をくぐる別の新入生の胸中でも、別様の決意が静かに固まっていた。 * * * 入学式が行われる講堂は、歴史と格式を感じさせる荘厳な造りだった。高い天井、重厚な|緞帳《どんちょう》、そして期待と緊張で満ちる新入生たちの熱気。猛は指定された席に着きながら、この学園のレベルの高さを改めて痛感する。耳を澄ますまでもなく、周囲の囁きは彼の劣等感を的確に刺激した。 「あの有名な錦山探偵の息子らしい」 「模試で全国トップだった秀才だ」 名家の子弟と超一流の頭脳。ここではそれらがごく自然に隣り合う。猛は、自分が別世界に迷い込んだかのような居心地の悪さを覚える。 だが別の列に座る一人の男子――後に彼のチームメイトとなる|青野渉《あおの わたる》は、これらの噂を面白い観察材料として受け取り、状況全体を半歩引いた位置から眺めていた。 さらに数列先、小柄な女子――|白河ことね《しらかわ ことね》は、同じざわめきを雑音としてしか処理できず、眼鏡の奥で視線を彷徨わせている。彼女の胃のあたりは、朝から固く結ばれたままだ。 やがて照明が落とされ、式典が始まる。学園長にして、かつて『幻影』の通称で語り継がれた名探偵、|有栖川京一郎《ありすがわ きょういちろう》が穏やかな笑みを浮かべて登壇した。 白髪に柔和な顔立ち。好々爺の風貌に反して、その瞳の奥には、試される未来を静かに見通す光が宿っている。彼は毎年この瞬間に、希望と痛みの両方が若者を鍛えることを思い出す。 「新入生の諸君、入学おめでとう。ようこそ、不知火探偵学園へ」 朗々と響く声が、講堂の梁を震わせる。 「諸君はここで、探偵に必要な知識や技術を学ぶことになるだろう。しかし、それだけではない。真実とは何か、正義とは何か。時には、残酷な現実に直面し、自らの無力さを痛感することもあるかもしれない」 有栖川は一度言葉を切り、若き顔ぶれをゆっくり見渡した。 猛はそこで学園長の眼差しに一瞬射すくめられ、自分の不安が見透かされたような気がした。 白河は、視線が自分に届かぬよう背を丸め、青野は逆に、その視線の流れがどのように群衆心理へ作用するかを冷静に測っている。 「だが、忘れないでほしい。困難の先にこそ、諸君が求める答え、そして本物の探偵としての道が開かれるのだ。ここで過ごす日々が、諸君にとって、真実だけでなく、己自身をも見つけ出す旅となることを願っている」 含みと謎に満ちた祝辞。新入生たちは、その言葉の射程を計りかねて静まり返った。猛は漠然とした不安に包まれながらも、奇妙な高揚を確かに感じていた。高揚の理由を、彼はまだ言語化できない。 続いて新入生代表の挨拶が告げられる。登壇したのは、先ほど猛に言葉を投げかけた銀縁眼鏡の男子生徒だった。 「新入生代表、神楽坂雅」 紹介に会場がざわめく。やはり彼は特別だ――そう人々は理解し、神楽坂自身もそれを当然の前提として受け止めていた。臆することなく完璧な所作で一礼し、理路整然とした口調で挨拶を始める。 「我々新入生一同は、この由緒ある不知火探偵学園の一員となれたことを、誇りに思います。我々は、探偵としての知識、そして技術を習得し、社会に貢献できる人材となるべく、日々精進することを誓います」 隙のない言葉、揺るぎない自信。猛は、その整いすぎた姿に対抗心を抱き、同時にわずかな劣等感を抑えられない。 周囲からは感嘆のため息が漏れる。神楽坂はそれらの反応を当然の評価として受け取り、表情一つ変えない。彼の中では、すでに先頭に立つ構図が自然に出来上がっていた。 * * * 入学式が終わり、オリエンテーションへ。新入生の前に現れたのは、いかつい顔つきに鋭い眼光、カタギとは思えぬ圧をまとった中年男性だった。 彼こそ、これから猛たちの担任を務める|鬼瓦権蔵《おにがわら ごんぞう》教官。元警視庁の鬼刑事として名を馳せた人物である。彼には甘さを切り捨てることに迷いがない。 「新入生! ようやくヒヨコが揃ったか!」 開口一番、ドスの利いた声が講堂に突き刺さる。一瞬で空気が張り詰めた。白河の肩が小さく跳ね、青野の口元にだけ薄い微笑が浮かぶ。緊張をどう扱うかは、すでに個々の性質を露わにしていた。 「俺が貴様らの担任を務める鬼瓦だ! まず最初に言っておく! この学園は、生半可な覚悟でいられる場所じゃねえ! ここは探偵養成所だ! 探偵ごっこをしに来た奴は、今すぐ帰りやがれ!」 鬼瓦は新入生たちを|睥睨《へいげい》し、さらに畳みかける。 「この学園では、入学試験の成績に基づき、三人一組のチームが編成され、序列がつけられる! 授業、演習、あらゆる評価がポイント化され、その合計で序列が決まる! 序列は絶対だ! 上位のチームには相応の待遇が与えられるが、下位のチームは……わかるな?」 ゴクリ、と誰かが唾を飲む音がした。猛の背筋に冷たい汗が流れる。白河は数字という言葉だけで胃がきしみ、青野はゲームの盤面を想像していた。 一方で神楽坂は、このルールが自分を更に押し上げる舞台装置であると理解している。 「そして、最下位のチームは、常に退学勧告のリスクを背負うことになる! 結果を出せん奴は、容赦なく切り捨てる! それが不知火探偵学園だ! 覚悟はいいか!」 厳しい現実に、顔色を失う者が少なくない。猛は歯を食いしばった。恐れと同じ強さで、意地が燃え始めている。 やがて運命の序列発表が始まる。鬼瓦が淡々とチーム名とメンバー、そして序列を読み上げていく。 「序列一位、チーム・プロミネンス! 神楽坂雅、西園寺玲華、轟周平!」 やはり、というどよめきと羨望の拍手。神楽坂は表情を崩さず、華やかな女子――西園寺、寡黙な巨漢――轟とともに軽く会釈した。三人の間には、すでに役割の輪郭が共有されている。 次々と上位チームが発表され、そのたびに歓声やため息が漏れる。猛はまだ呼ばれない自分に焦りを募らせ、最悪の可能性を頭の隅で弾き、また拾い直した。青野は残り枠の計算を指折り確認し、白河は数字が小さくなるほど視界が狭まっていくのを自覚していた。 「――序列四十八位、チーム・グリフォン! 序列四十九位、チーム・ライラック!――」 そして、最後のチームが告げられる。 「――序列五十位、チーム・ラストホープ!」 皮肉を孕んだ名が落ちると、会場の空気が一瞬凍りつく。名付けた者の意図を推し量る視線が交差する。 「メンバーは……赤星猛!」 呼ばれた喜びと、最下位という事実が猛の胸で衝突する。歓喜は鈍く、屈辱は鋭い。鬼瓦は続けた。 「青野渉!」 数席隣の青野が「おやおや」とでも言いたげに肩をすくめる。彼は、この組み合わせが退屈とは無縁だろうと直感していた。 「そして――白河ことね!」 小柄で大きな眼鏡の女子、白河が名を呼ばれると、ビクリと肩を震わせ、さらに深く顔を伏せた。彼女にとって視線は、痛覚に近い刺激だ。 クスクスという失笑が漏れ始め、侮りと憐憫の視線が三人に突き刺さる。 猛は込み上げる怒りと屈辱に喉が熱くなるのを必死で抑えた。 青野はやれやれという表情で群衆の反応を眺め、白河は小さく身を縮め、存在を薄めようとしている。 不知火探偵学園での生活は、こうして最悪の形で幕を開けた。落ちこぼれ、問題児、そしてコミュ障――そう他者に名指されかねない烙印が、最下位チーム『ラストホープ』に早くも貼られようとしている。 しかし、ここに集められた三人が抱える欠点と資質は、互いに不器用に噛み合う余地を秘めていた。彼ら自身は、まだそれを知らない。 果たして、このアンバランスな三人は、学園の厳しい序列競争を生き残り、一人前の探偵になれるのか。いや、その前に、チームとしてまともに機能することができるのか。 赤星猛たちの、波乱に満ちた学園生活が、今、始まろうとしていた。食堂での聞き込みを終え、再び二階の書斎へと戻ってきたラストホープの三人。 血の匂いと紙とインクの匂いが入り混じる重苦しい空気は、先ほどと変わらず部屋に淀んでいたが、三人の胸中には、さっきまではなかった「次に何をすべきか」という明確な目的意識が共有されていた。「……結局、アリバイじゃ誰も絞れなかったな」 書斎の入口で立ち止まり、猛が悔しそうに呟く。取り調べで何か決定的な矛盾を暴けると期待していた分、肩透かしを食らったような苛立ちが残っていた。「ええ。皆さん、見事にアリバイがないか、あっても証明できないものばかりでした。もっとも、それは犯人の狙い通りなのかもしれませんが」 青野は、感情を抑えた声で冷静に答える。容疑者たちの言葉は、どれも慎重に選ばれており、決定打にはほど遠い――そう判断していた。「容疑者の『言葉』だけを追っていては、これ以上の進展は望めそうにありません」 その横で白河は、黙ってタブレット端末に視線を落としていた。先ほどの聞き込みで得た情報と、現場で記録したデータが、彼女の頭の中で何度も組み替えられ、照合されている。「となれば、次に我々が注目すべきは『物』――物理的な証拠、そして、この『黒百合邸』そのものの構造です」 青野は書斎全体をぐるりと見渡しながら言う。「この完全な密室を可能にしたトリックが、必ずどこかに隠されているはずです。そのためには――」 彼はそこで言葉を切ると、一度書斎を出て一階へと降り、再び皆が集まっている食堂へと戻った。そして、滞在者と黒田を前に、丁寧に頭を下げる。「皆さん――何度も申し訳ありません。捜査のため、この館、特にこの書斎周辺の詳細な設計図をご提供いただきたいのですが――どなたかご存知ありませんか?」 その問いに、即座に反応を示したのは鷹宮だった。「設計図、ですか。承知しました。財前様の書庫に保管されているものがありますので、すぐにお持ちします」 淀みのない返答。協力を惜しまない態度は、秘書として模範的ともいえた。
猛、青野、白河の三人は、血の匂いの残る書斎を後にし、重たい空気をそのまま引きずるように一階の食堂へと向かった。 そこには、すでに管理人・黒田の指示で残りの滞在者――鷹宮、綾小路、久我――が集められていた。三人とも椅子に腰掛けてはいるものの、誰一人として落ち着いている者はいない。硬くこわばった表情の下には、それぞれ不安や動揺、そしてそれだけではない、何かもっと複雑な感情を必死に押し隠している気配があった。「黒田さん、ありがとうございます――皆さんには状況は?」 食堂に入ると、青野がまず黒田に確認する。彼の声は落ち着いていたが、内心では「ここから先の一言一言が、この場の空気を決定づける」と慎重に言葉を選んでいた。「ああ――財前様が書斎でお亡くなりになったことは既に伝えてある」 黒田は短く答える。その瞬間、テーブルの空気がさらに重く沈んだ。「そんな……ひどいわ……」 綾小路は、あらかじめ用意されていたかのようにハンカチで口元を押さえ、大げさとも取れる仕草で目元を押さえる。だが、彼女の涙には本物の動揺と、同時に「周囲にどう見られるか」を計算する冷静さが混在していた。 久我は、沈痛な表情で静かに目を伏せる。彼の胸中には、かつて会社を奪われた相手が「死んだ」という事実が、複雑な感情を呼び起こしていた。憎悪、安堵、罪悪感――それらが渦を巻き、簡単に言葉に出来る状態ではない。 鷹宮は、表情こそほとんど変えないものの、眉間にごくわずかなしわを寄せていた。長年仕えてきた主の突然の死に、忠誠心から来る衝撃と、心のどこかで抑え込んできた鬱屈が揺さぶられている。「ありがとうございます」 青野は黒田に礼を述べ、今度は食堂全体に向けて口を開いた。「念のため、基本的な確認をさせてください。昨夜から今朝にかけて、外部から誰かが侵入した形跡、あるいは館のセキュリティに異常はありませんでしたか?」「それは断じてあり得ん」 黒田は即答した。答えをあらかじめ用意していたかのように、一切の迷いがない。「昨夜
『――制限時間内に真相を突き止めろ! 以上だ!』 鬼瓦教官の通信は、それだけを告げると一方的に途切れた。書斎に踏み込んだ猛、青野、白河の三人は、しばし言葉を失って立ち尽くす。 目の前には、重厚なデスクの前で崩れ落ちるように倒れた財前剛三の亡骸。床一面に飛び散った血痕はまだ完全には乾ききっておらず、鉄錆にも似た生臭い匂いが、古い書物の匂いと混ざり合って部屋を満たしていた。 その傍らには、黒百合を模したブロンズ製オブジェが転がり、その先端には生々しい血がこびりついている。 演習とはいえ、目の前の光景はあまりにも生々しい。猛はごくりと喉を鳴らした。これまで学園で経験してきたどの模擬事件よりも、死が近く、重く感じられる。 頭では演習だと理解していながら、身体は本能的に本物の現場だと判断しているのだ。 最初に我に返って動いたのは青野だった。驚愕と緊張を、いつもの飄々とした仮面の裏に素早く押し込み、瞬時にやるべきことを組み立てる。「っ――まずは現場検証ですね」 彼は二人へ向き直ると、手早く指示を飛ばした。「赤星くんは、破られたドアと窓の状況を再確認してください。力ずくで開けられないか、外側から細工された痕跡がないか、徹底的に」「あ、ああ!」 「白河さんは現場全体の記録と、鍵や閂周辺、窓枠などの微細な痕跡の調査を。僕は全体の指揮と記録に回ります。それから黒田さん、この館にいる他の方々を一箇所に集めておいていただけますか?」「わかった――食堂に集めておこう」 黒田が短く答える。 青野は礼を述べると、すぐさま自身も動き出した。かつての演習で培った役割分担の感覚が、三人の中に根付きつつある。猛も白河も、動揺を抱えながらも頷き、それぞれの持ち場へと散っていった。 * * * 猛はまず、破壊されたドアを確認した。先ほど黒田と二人がかりで体当たりした衝撃で、閂の受け金具部分が砕け、木片が内側に飛び散っている。「閂は……
黒百合邸で迎える最初の夜。館のダイニングルームには重厚なマホガニーのテーブルが据えられ、天井から吊るされた豪奢だがどこか古めかしいシャンデリアが、鈍く黄味を帯びた光をかすかに瞬かせていた。 テーブルを囲むのは、管理人の黒田、四人の滞在者、そして『ラストホープ』の三人。磨き上げられた銀器の音だけが、張り詰めた空気を細く切り裂いていく。 料理は文句の付けようのない一級品だった。前菜からメインに至るまで、盛り付けも味も洗練されている。だが、それを心から享受している者はほとんどいなかった。特に滞在者たちの間には、取り繕った会話の裏で、別種の刃が何度も交わされている。「そういえば、今回は来てくれて光栄だよ、南川建設の元社長さん――いや、もう肩書きは返上したんだったかな」 財前が、わざとらしい笑みを浮かべて久我に視線を向けた。口調は冗談めいているが、その下にある優越感は隠そうともしていない。「……そう、ですね。私の会社を掠め取られるという出来事はありましたが、今は友人と……思っていますので」 久我は、表向きは柔和な笑顔のまま答えた。その声音は穏やかだが、青野には、その瞳の奥に、一瞬だけ冷たい光が走ったのがはっきり見えた。 南川建設が財前の企業に吸収された――事実の経緯には色々あるのだろう。少なくとも、表に出さないだけで、久我の内側に燃える感情は、友愛とはほど遠いものだと、青野は確信する。「フン、そう言うでない。現に私の会社の一部門となって以来、業績は鰻上りだ。君の経営でいるより、あの会社も幸せだっただろう」 財前は久我の言葉を鼻で笑い飛ばし、見下ろすような視線を投げた。久我は表情を崩さない。 「ええ、全くもって財前さんのおっしゃる通りです」とだけ返し、静かにスープをすくう。その礼節ある態度が、むしろ抑え込まれた感情の深さを示しているようにも見えた。 財前は、次に傍らに控える秘書兼ボディガードの鷹宮へと向き直る。「鷹宮くん、明日の朝一番で、例の企業との契約を東京本社へ結びに行く。至急、プライベートジェットの手配を頼む」
不知火探偵学園を出て専用車に揺られること約一時間。鬱蒼とした森を縫う山道へ入ると、窓の外は深い霧に沈み、世界は輪郭を失った。車内の三人――猛、青野、白河――は、それぞれに同じ感覚を覚える。 ――濃霧は単なる天候ではなく、外界との連絡を断ち切る幕のようだと。 猛は未知の現場が近づく高揚とわずかな緊張に喉が乾き、青野は隔絶は演出として非常に効果的だと冷静に評価し、白河は視界を奪う白さに、情報が削がれていく心細さを胸の奥に抱く。 やがて車は古びた鉄門の前で止まった。蔦に覆われたプレートには、辛うじて『黒百合邸』の文字。運転手がリモコンを押すと、きしむ音とともに門が開き、車は敷地内へと滑り込む。 霧がほどけ、館が姿を現す。重厚な石造りの洋館に、純和風の家屋が寄り添い、異なる時代と文化が無理やり結婚させられたような接合部を晒していた。 意匠の細やかな出窓やバルコニーのすぐ隣に、風雪に耐えた瓦屋根が重なる。庭園も同じく混交している。西洋式の幾何学的花壇の途切れに、苔むした灯籠が唐突に立つ。黒々とした土の片隅には、名の由来を誇示するかのように、妖しく濃い紫の黒百合が霧雨に濡れて俯き、甘い匂いを微かに放っていた。 総じて美しい――ただし、どこか手入れが斑で、意図して不気味さを残しているようでもある。赤星は思わず息をのむ。写真の印象など浅かったのだと、目の前の異形の調和が教えた。 玄関ポーチに車が停まる。重い扉が静かに開き、初老の男性が姿を見せた。背筋は真っ直ぐ、顔には深い皺、眼光は鋭い。年の頃は六十前後、仕立ての良いスーツの落ち着きが、むしろ隙のなさを際立たせる。「ラストホープの諸君だな。学園より話は聞いている――この館の調査ということだったな。この館の管理人、黒田巌だ。ようこそ、黒百合邸へ」 低く通る声。必要最小限の情報だけを与え、それ以上を渡す気はないと、挨拶そのものが示している。三人は、今回の訪問の表向きの理由が『館の調査』であることを改めて胸に置いた。 * * * ホールに入ると、既に四人の男女が待っていた。黒田は
七月――期末考査の足音が近づくとともに、不知火探偵学園には、浮き足立つざわめきと、糸のように張り詰めた緊張が同居し始めた。 梅雨は明け、空はようやく薄藍を取り戻しつつあるのに、生徒たちの心の湿度だけは下がらない。廊下や談話室では、声を潜めた噂が行き交う「今年はどんな形式だ」「実技で転ぶと致命的だ」「序列は動くか」 その一つひとつが、試験の名を借りた再編の季節を告げていた。『ラストホープ』の三人も、例外ではない。序列は依然として最下位。彼らにとって期末考査は、名実ともに生き残りを賭けた戦場となる。圧は日ごとに重くなり、肩にのしかかって、呼吸の深さを奪っていく。 そして運命の朝、ホームルーム。教壇に立つ担任――鬼瓦の表情は、いつも以上に岩のように険しかった。「――静かにしろ! これから、一学期期末考査の詳細を発表する!」 一喝で空気が締まる。視線が一斉に教壇へ吸い寄せられた。「今年度の期末考査は、各チームに個別の特別演習を科し、その成果を総合評価する!」「個別演習!?」「チームごとに違う課題ってことか?」 教室がざわめく。これまでの実技試験では学年全体で同じ事件の解決に臨むというものであったため、全く異なる形式に、戸惑いの声が上がった。 鬼瓦はざわめきを意に介さず、名簿を読み上げていく。チームごとに課題が記載されたデータファイルが配布され、液晶画面に次々と新しい見出しが開く。「チーム・プロミネンスは、第三演習場での連続殺人事件対処訓練」「チーム・グリフォンは、過去の未解決事件の再捜査レポート提出」 課題は多岐にわたり、似たものは一つとしてない。最後に、その名が呼ばれた。「――ラストホープ!」 三人の背筋がわずかに強張る。「貴様らには、学外施設『黒百合邸』にて、一泊二日の実地調査演習を行ってもらう!」 教室に小さな波紋が広がる。 猛は思わず目を丸くした。学外、それも泊まり込み――他